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初期の日本人渡米者

 カテゴリー:日本人の記録, 月刊MON

日本人の記録 4 月刊もん1977年12月号より

 
 日本人の記録

嘉永6年(1853年)今から124年前、ペリーの黒船来日をきっかけとして、安政7年(1860年)日米修好通商条約使節団が渡米する以前にも、日本人の渡米者がいた事は前号で触れたが、この使節団の正式国交の後は、出国が禁止されていたにもかかわらず、その国禁を犯して渡米する人たちがあった。

その人達は、一旗あげようとするものでもなく、又、何となく行ってみようというような人々でもなく、純粋な気持ちで海外事情を知り、国の役に立とうと考えての国禁侵犯であり、明治元年6月日本を脱出した安中藩々士、新島襄はその最たる先駆者であった。しかし逆に又、亡命者、芸人、興味による渡米者、米国人が従僕として連れてきた人々もおり、これらの人たちのうちの少数の人が永住を覚悟で残留したのである。

 

  • 初期留学生

新島襄の渡米から始まった知識の吸収を目的とする、いわゆる留学生としての渡米は盛んになり、長州藩は伊藤俊介等一行を英国へ派遣したのはテレビ「花神」でご存知の通りである。

鹿児島藩も俊才を選び、やはり英国へ留学させた。森有礼、鮫島尚信、長沢鼎の3名であり、彼らは英国留学後、米国にも学び、長沢のみはそのまま残留した。米国の詩人トマス・ハリスに連れられ、カリフォルニアに移り、サンタローザ北方、ファンテングローブで農業、ブドウの栽培にあたり1934年84歳まで過ごした。

慶応年間には、官費、私費の留学生が増加、彼らは東部、中部、西部太平洋岸で、ほとんど無料待遇によって学業を修め、帰国後は明治政府に迎えられて新しい日本の基礎作りをしたのである。最初の留学生と見られる新島襄は、1865年にボストンへ着いてから、大学、神学校を経て1874年日本に帰った。そして設立したのが京都の同志社大学である。

高橋是清も1867年サンフランシスコに到着している。勉学の後、帰国し、大蔵、総理大臣として功績を残した。

 

  • 最初の女子学生

女性の留学生として最初に渡米したと思われるのは、1871年(明治4年)岩倉大使一行百余名に伴われ、津田梅子、永井しげ子、山川捨松、吉益りよ子、上田てい子(8歳空15歳)の女子留学生が渡米した。津田梅子は帰国後「津田英語塾」を開き、女子教育界に貢献したのである。

これ以前から、つまり1868年1890年までの在米日本人の概数を当時の米国の国勢調査を参考にあげると、

1868年から1870年     男性47名、女性8名

1871年から1880年     男性134名、女性14名

1885年から1890年     男性1780名、女性259名と増加の模様が伺われる。

 

日本人の記録 5

  • パスポート第1号

鎖国の日本から国禁を犯して海外に出た若者、それは以前の漂流者はともかくとして、日本人としてパスポートの発給を最初に受けたのは、1866年神奈川奉行によって、徳川幕府の銭座の息子・花田新助に発給されたのが第1号といわれる。

米国領事の妻子が帰米にあたり日本人の付添いを欲しがっているということで、ついては勉強を兼ねて同道したらという話だった。だが当時の日本の情勢は渡航は非常に困難なことであり、それを犯せば極刑に処せられるものであったが、外国の領事からの口添えは時の幕府にとって断りきれない事情もあり、なかば命令的に渡航許可申請がだされ、認められたものであった。

旅券には「必ず立帰る事を条件に許可するが、法律がまだできてないので、仮に証明するもの」である旨、記載されていた。これは日英両文で書かれ、リボンでとじられていた。

新助26歳。この時、尊王派の浪士の襲撃を避けて、夜陰にまぎれて乗船するというもので、渡航後2、3年して帰国、大隅重信からすすめられ、家業と関連のあった大阪造幣局につとめ、各種の機械を発明したのである。

 

  • 初期の移住者

学生等の渡航が増加しはじめたころ、1868年、日本から純然とした移住者が153人、ハワイに移住した。彼らは労働を目的とした、最初の移住者達であった。

このほか、E.W.スネールという人が連れてきた一行もいた。スネールは会津、庄内両藩に鉄砲の売り込みと同時に、砲術教授もしていたが、明治維新後、帰米して第2の人生を歩むため、2回に分けて20名前後の移民を呼び寄せた。1869年のことである。

スネールはカリフォルニアのゴールドヒルで米の栽培に当たったが、気候の違い、風土の違いで疫病で倒れる者も多く。又資金の欠乏から事業は失敗、一行は四散したのである。スネールは一行をそのままにして姿を隠し、残されたものは同地にとどまったり、サンフランシスコに出てきたりした。明治3年(1870年)のことであった。

この悲惨な運命を辿った一行の中に「おけい」という18歳の少女がいたのである。スネールの子供の子守りとして連れてこられた、この「おけい」も同じ運命をたどるが、隣家の主婦に保護されたものの、やはり風土病にかかり、19歳の若さで故国日本を再び見る事無く多難な生涯をとじたのである。お墓は一行中の農夫・櫻井松之助がその死をいたみ、サンフランシスコの石工に依頼、コロマのゴールドヒルの農園の一隅に建てた。在米日本女性の墓としては最古のものである。

そのほか、ネバダ州リノに高橋梅吉という人の墓も発見されている。1868年渡米、1907年61歳で死亡、最初の渡米者であり、鳥羽伏見の戦いでの敗残の勇士と記されているが詳細はわかっていない。また、同墓地には他にも日本人の墓が6、7基あるそうで、いずれ機会があれば現地を訪れ、資料があれば記述したいものである。

参考資料「米国日系人史」ほか

 


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1977年月刊もん から