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咸臨丸

 カテゴリー:日本人の記録, 月刊MON

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最初に私としてはせっかく、先輩諸氏が非常な努力をされて、貴重な時間をかけられて収集された資料の参考文献が、死蔵されたり、単に文献の蒐集の枠にとどまったりするのではなく、何らかの形で私たち以降のより多くの人たちの目に触れていき、新しく息づきその人たちがこのアメリカで生きていく上で、少しでもプラスになれば先輩の努力や意図も、むくわれるのではないかと思いいろいろな書類、本などを引用させていただいたことを最初に申し上げておきたい。 これから毎月号を追って行く予定ではあるが最初に触れたいのはやはりこのサンフランシスコと大きな関係を持ち、またアメリカ人と日本人との歴史的なつながりをもつきっかけともなった「咸臨丸」から入りたいと思う。

日本人がアメリカ大陸と公式に交渉を持ったのは、今から117年前、1860年1月19日。日本から出航した咸臨丸にはじまる。咸臨丸はワシントンにおいて日米修好通商条約批准のため米国の艦に乗って渡米する徳川幕府の使節一行を警護の使命を帯び、軍艦奉行、木村摂津守喜毅、指揮艦長、勝安房守海舟等乗組員全員96名を乗せて出航した。この中には通訳の中浜万次郎や医師、大工、鼓手たちも含まれており、福沢諭吉も乗船していた。

品川を出航した咸臨丸はその日のうちから難航、日夜、烈風、濃霧、雪、雨、寒さに襲われて、航海37日の内晴天はわずか、5、6日しかなかったと航海日誌に記されている。2月26日(陽暦3月17日)未明、咸臨丸はアメリカ大陸西岸を霧の間から初めて望見して、サンフランシスコに入港するまでを記した航海日誌には次のように書かれている。

image明け方、北アアメリカ大陸の西海岸を発見した。遠く霧の晴れ間に見える山々は大波のようで、高い峰は雲間にそびえたっている。これより針をサンフランシスコ港口にとり5、6里に近づくと、水先案内の舟が3、4隻見えた。彼らは我が舟を認めると、帆を操り、舵を廻して直ちに接近してきた。案内を託すと、針路を港口に向けて誘導。午前港内大桟橋の手前2町ばかりに投錨した。
同日上陸。車に乗ってホテルに到着。このホテルは「インターナショナル」問いって4階建てのホテルであった。このようにして、咸臨丸の一行は上陸した訳であるが、航海中に受けた艦の損傷を修理するためドック入りした間、サンフランシスコに滞在、大歓迎を受けたが、当時のサンフランシスコの新聞〈アルタ・キャリフォルニア〉紙は、この模様を次のように伝えている。初めてみる日本人使節団一行を当時のアメリカ人にどのように映ったか興味深い。image
「遣米使節団を乗せた米国軍艦、ボウハタン号の先駆けとして日本から咸臨丸が到着した。この船は日本から3日間は機関に頼り、後派帆走によった。非常に快速力で1日平均200マイルも走った。日本の水夫は海上生活に慣れ、マスとの上に駆け上ったりして、実に迅速に行動し、命令は全てオランダ式である。
船上の食事は主として、米、干し魚、漬け物である。航海中は別に宗教的な儀式はなかったが、各自、自分の部屋でお祈り等をしたようである。彼らは清潔でよく風呂に入り、船上では黒色の上衣にパンツをはき革靴もはいていた。
彼らは礼儀正しく、我々が訪問したときは、摂津守派一人の家来から髪を結ってもらっていたが、甲板に現れた時は礼儀正しい服装で、白足袋を履いており、上衣はこげ茶色、下は藍色の非常に立派なもので、二本の大刀を差していた。

明日はこの軍艦と砲台との間で礼砲の交換がある。同船に便乗してきた米士官の案内で、非公式に市内を見物、インターナショナルホテルに入り、洋食を食べて驚いたようであった。後、ジョッブルス・ホテルを訪問、アイスクリームをご馳走になった。翌3月18日は市長その他の出迎えに、木村摂津守をはじめ一行が上陸、両国代表がインターナショナル・ホテルの大広間で会見、カリフォルニア知事、ドウニィ氏も参加した。
摂津守と知事との会見の最初のの問題は咸臨丸修理の件であり、知事は州の費用で快く応じた。その後、知事より太平洋を経ての日米両国親善の増進についての希望が述べられ、双方シャンペンにて乾杯した。後、市内及び造船所を見学、リンカーン丘に登って市内の全景をながめ、6時からホテルにおいて、一行の歓迎晩餐会に臨んだ。宴が終わって、摂津守一行は多くの家来や市の役人に送られ帰船したが、この夜、アメリカ人を驚かせたのは、高張提灯をたてての物々しい出迎えであった。
3月22日、摂津守と幕府大名は市庁に公式答礼をし、カリフォルニア第一守備隊は市庁前に整列、礼砲を放った。image
市庁の内外は見物人群れをなしていた。摂津守、勝海舟は中沢万次郎の通訳でコップ将軍以下、市参事員たちと握手をして教養深い接見の態度を示した。
この後、ジョップ・ホテルの招宴に列席した。当夜の司会者の市長は日本代表及び米国大統領の健康を祝し、一同起立乾杯した。次に自分の名を唱え、最後に米国大統領の健康を祝して万歳を三唱して乾杯。万次郎がこれを通訳したが、この乾杯の順序が違ったのは摂津守がサンフランシスコで演じた失敗の最も大きなものであった。
咸臨丸は5月15日大歓迎を受けたサンフランシスコを後に、途中ホノルルに寄港して、6月24日無事帰国した。しかし全員ではなく病死した3人の乗組員の墓をこの地に残して……つづく

 


それは38年前でした
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1977年月刊もん から